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白い山だった。気づけば歩いていた。右をみても左をみても、見上げんばかりの高い峰がそびえている。見渡す限りの白。うまれたときから決まっていたのだろう。身体はそれ自体が意志をもち、ただ前に前に進んでゆく。素足の下にもやはり白が広がる。歩くたび、きしむように体が痛んだ。筋肉が動くと足の皮がひきつれる。呼吸はうめき声と混ざり合う。それでも歩き続けた。

木があった。正確にいえば、木のようなもの。それは葉をもたなかった。芽も花ももたなかった。もしかしたら根もないのかもしれない。幹だけの存在。いや、存在が薄れている存在。それは色をもたなかった。ふと、木というものがいかに鮮明な色を、踊るような生命をもっていたかを思い出した。そうだ、これらはその内側にあふれんばかりの命をもっているはずだ。

その瞬間、脳裏に色とりどりの記憶が走り抜けた。

私は、死んでいた。

そのことに気づいてもなお、足は前に進むことをやめなかった。吐息とともに搾り出していたうめき声は、いつの間にかやんでいた。気づけば痛みは先ほどよりも軽い。おそらくは、と彼女は考えた。歩き続けるうちに痛みはなくなるのだろう。

それから、自分がどうして死んだのかを思い出そうと努めた。その途中、彼女は思い至った。もしかして、いや、もしかしなくても、私はこの世界で最初の「死んでしまった神」なのか。

そう思うと、情けないような恥ずかしいような心持ちになった。少なくとも神がこんなにあっけなく死んでしまうなんて、誰も想像していなかったに違いない。彼女は、天上界の神々を思い出した。いないところで長老と呼んでいた年配のアメノミナカヌシですら、まだしっかりと生きているにちがいない。やはり、私が初めての死んだ神。

やるせなさと共に、彼女は夫のイザナギを思い出した。地上にはふたりしかいなかった。そこには形をなさないものしかなかった。水のような、へどろのようなものはあったけれど、少なくとも生命とよべるものはなにもなかった。そして私たちが世界を産んだ。そうだ、それから、

「あぁ、」

と、うめき声ではないため息。

様々な神を産んだあと、あの世界に自然が満ち満ちたあと、新たな子を産んだのだ。それは新たな祝福であるはずだった。

子は、火であった。体内にいるときには気づかなかったが、生まれる時に大きく燃え上がった。

あの子は元気でいるのだろうか。火にくるまれた子の面倒を一体誰がみてくれているのだろうか。どんな風に育つのだろうか。そもそも無事に生まれたのだろうか。ちゃんと産んであげられなかったかもしれない。

我にかえる。足の裏に細かなゆれが伝わってきた。前方に何か大きな盛り上がり。近くまで歩を進めると、それは背丈ほどもある洞であった。通り過ぎる段になってようやっとのこと、洞から聞こえてくる大きな音に気がつく。ゆれを引き起こすほどの大きな音。どうやら空気が吸い込まれているようだったが、ほんのすこし通り過ぎただけで、また音はほとんど聞こえなくなった。足の裏の振動だけが残る。木のようなものは、依然そこら中にあった。しかし、それらは木のようなものであることもやめてゆく。影に近づいてゆく。

(私もああなるのかしら)

あっという間に死んでしまった神。神なのに死んでしまった神。自分が死んでしまうことは不思議と怖くなかったが、記憶がなくなるのは避けたかった。愛しい人。

天上界に存在した時から、ずっと隣にいた。地上に降りるか悩んだときも、そして本当に地上に降りるときも隣にいた。あの世界を造ったときも、朝も昼も夜も隣にいた。手をつなぎ、微笑み合い、子を産んだ。彼女はひとつずつ丁寧に記憶をたどった。もしかしたら、どこかに違う道があったのかもしれない。それがみつかったところで、けっして生き返れるわけではないが、それでもなんとかして見つけたかった。生きていたはずの道。死ななかった生命。そこへ向かう道がわかれば一筋の救いを感じられるかもしれない。

身体が向かっている先は、もはやなんとなくわかっていた。死者の国。黄泉国である。しかし、幾度記憶をめぐっても、彼女の過去には別の道は存在していなかった。何度繰り返したとしても、やはり天上界から地上へ降りてきたし、そしてやはり世界を産んだであろう。それが火の神とわかっていても、あの人の子供である。あたりまえのように産むことを選んだであろう。もちろん、夫イザナギがいないなら話はたやすい。そもそも地上へなど行かない。天上界にとどまり、今だって歌って舞っていたはずだ。

つまり、とあきらめたように彼女は微笑んだ。今、ここでこうやって死んでいるのが私ということ。今、地上できっと泣いているのがあなたであるということ。それは変えることなどできない。

ほかの人を選ぶことなどできないならば、はじめからほかに道はなかった。わかってみれば簡単なことであった。死んでいるのが私。あなたを好きな私。あなたが好きな私。泣いているのがあなた。私を好きなあなた。私が好きなあなた。そう、泣いているのがあなた。死んでいるのが、私。

ねぇ、イザナギ。あの子を恨まないでね。もう何もしてあげられない私が、最後にあなたに手渡すもの。それが不幸なものでありませんように。できることなら、美しいものでありますように。イザナギ、それでも世界は美しい。私がいなくなっても、私たちが造った世界は変わらずに存在している。そこにはあなたがいて、愛があって、命がある。

どうか私たちが愛した世界を、これからも愛して。

わたしが産んだ世界とわたしが生まなかった世界Where stories live. Discover now